体力がないので、筋トレも含めて意識的に運動をしたいと思っているのだけど、息子に踏まれた足がシクシクと痛む。歩くとまた痛みがひどくなったりするものだから、本気で運動することがためらわれる。1日5000歩前後で、足を守りながらチンタラと歩く。

私は歩きスマホやイヤホンもしない。最近はデジタルデトックスを意識しているけど、それでもついスマホは見てしまう。外に出られるときぐらいは、画面は全く見たくない。でも写真は撮るときだけは、いそいそとバッグからスマホを取り出す。きりんリブートのInstagramは、自分の生存確認記録なので、毎日1枚は撮ると決めている。

雨の日も多い、この春だけど、いつもの年よりも長く桜が楽しめているような気がする。今日は、川沿いを散歩していたら、川の中や土手に、菜の花が群生していた。誰かが植えたわけではなくて、雑草的なポジションで力強くバンッ!と咲いているのだった。飛び出す絵本みたいで、勢いがすごいなと。

川のこちら側にいる私が、向こう側を撮っている。向こうの遊歩道を歩いている人は、真下の菜の花には気づかないかもしれない。歩いていたら、見事な桜の方を見上げるだろう。

こちら側から見ていると、どちらの花も主役なんだよなぁ。人知れず咲いている菜の花だって、主役の顔して堂々としているじゃないの。誰かに気づいてもらえるとか、どうでもよさそう。なのに、すっごく豪華な花束みたいでかわいかった。

実はこのとき、私は真昼間からほろ酔いで歩いていたのだ。私は、日々の虚無と絶望をひとりで抱えきれなくなっていた。土日は車の運転をしないと決めているので、ランチ酒を許している。気持ちいいぐらいの量とは決めているので、ワインか生ビールをグラスに1杯。それで、頭の中が緩められる。合法だし、それで気持ちよくなれるんなら、いいんじゃね?と思って、甘くなる。でも、この考え方、危険なんだよなぁ。アル中の一歩手前というか。

酔いながら歩くと泣きたくなってくる。白鷺にシンパシーを感じてしまったり。

歩きながら、読書について考える。私は幼いころからスピードを求められる運動競技がからきしダメで、苦手だった。例えば、水泳。速く泳ぐことはできなかったので、スピードで順位を決めるクロールなどでは、良い成績を残すことはできない。潜水は学校で1位だった。低いところをスイーッと泳いで、音も聞こえない自分だけの世界が心地よくて、息だけ保てれば距離を延ばすことはできた。競うこと以外の水泳は大好きだったのだ。

読書もそれに似ていて、昔から早く読めない。自分のペースで読むから楽しい。潜水のように深く潜り込む感じも好きだった。本を読まない期間もあったけれど、読書が嫌いになったわけじゃなかった。

本を読む行為は、そもそも、他の活動との共存関係にある。例えば、私の20代は、仕事、趣味、恋愛、生活と、読書があった。20代は身体を使う体験をたくさんしてみたかったので、毎日が忙しかった。ダイビング、テニス、スノーボード、カヌー、なんでもやったし、コミュニティごとの友達もたくさんいた。

その間は、山田詠美さんや山本文緒さん、唯川恵さんなどの、恋愛小説に浸るぐらいで、本を読むことが人生のメインではなかった。それでも、言葉に救われたり、共感したり、文章の表現にほれぼれしたり、本の世界に心地よく揺蕩っていた。

今はどうかというと、読書が1日の活動のメインになってしまっている。趣味でもあるけど、仕事にもなっている。「本を読まないと不安」みたいな強迫観念に近い感覚もある。

インプットもアウトプットもバランスよくしているけど、使っているのが「頭」だけなんだよなぁ。考えてみたら、読書とインスタ発信を今風で言うところの「ガチって」きてから、身体の不調が半端ない。首も肩も腰も凝り固まって、先月はあまりの痛みに、前向きなことを一切考えられなくなってしまった。

健やかだったのは、やっぱり20代の頃の在り方なんだろうなと思う。仕事や運動、学ぶ時間も作りたい。友人も作りたい。読書は、したかったらする。気分がのらなかったら、しない。それが本来の本との向き合い方だと思う。

これまで、私は発信するための読書をやめられなかった。日々、良い本にたくさん出会える喜びはあるものの、読書と発信が義務のようにもなってきた。例えば、素晴らしい本と出会えたときには、余韻だけで読まない1週間を過ごしてみる方が自分には合っている。心を揺さぶられた文章を、自分の人生に当てはめて咀嚼してみる。本を読んでいなくても、豊かな時間になる。私の今の読みかたには、読まない時間という余白がなさすぎる。

そうして、本屋さんのように新刊本をため込んだ自室で、背表紙を見て苦しくなっているなんて。なんだか本末転倒だ。

「読書のインスタ、休止してもいいのかもしれない。」

ふと、歩きながらそんな考えが浮かんだ。本への現実逃避の時間が長くなりすぎてしまった。もう少し、人生の本質的な部分に目を向け直したほうがいいのではないか。

自分らしく生きるために、時間を配分してみようと思う。このブログも、自分の内面を見つめるには良い習慣だと思うので続けていきたい。

SNS発信を続けていると、自分を見て欲しいと思う。リーチしなかったり、反応がないと悲しい。存在していないみたいに思うこともある。


でも、誰も見ていなくても、人知れず足掻いている私も主役なんだよね。そういうことを気づかせてくれる散歩だった。